ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

免疫から痛みを考えてみるってのは割りと面白いんじゃないか?

 今日、いつものように喫茶店に行ってたのですが、そこでコーヒーを飲みながらゆっくりと色々考えていたら、ふと「免疫から痛みを考えてみたら面白いんじゃないか?」という考えが頭をよぎりました。蛇足になりますが、僕は頻繁に喫茶店に行きますが、本を読んだり、考えごとをするのに利用するなら、今どきな感じの「オシャレで綺麗なカフェ」みたいなところよりは、店内でタバコが吸えるようなレトロで少し汚い感じの空間が好きです。共感していただける方いますかね?(笑)まぁ、そういうどうでも閑話を話すのはやめて話題を戻しましょう。以前から、何度かTwitter(X)に神経-免疫システムと痛みの関係についてのツイートをしていました。しかし、あまり話を発展させずにきたので、今日はいい機会ですから、そういうことを少しブログに書いてみたいと思います。

 今日ふと頭に浮かんできたのは、免疫系と痛みの関係(そのメカニズム的な側面)などを考えている人は以前から沢山いるんだけども、何かもっとこう違う感じの考えに繋げられるのではないかという可能性についての思いでした。一応、補足しておくと、前者の文脈というのは結構多く研究されています。というのも、少なくとも侵害受容過程(「痛み」ではなく…!)や慢性化の過程(?)において、免疫系が積極的に関与してくるということが実証されているからです。こういうのは、ちょっと文献を検索するといくらでも引っかかるので、そちらの方をご覧いただければいいかと思います(例えば、[1, 2]の文献など)。僕が言いたいのはそういう文脈ではなく、むしろ「免疫」というものを介することで、今ある痛みの認識に疑問を突きつけることができるのではないか、ということです。僕自身、今日ふと思いついたことなので詳しくは述べられませんが、結構面白いことになるんじゃないかという気がしています。ここは僕のブログですし、大して誰にも読まれていませんから(笑)、全然アカデミックな文章などではないですが、ちょっと試しに話してみることにします。

 まずはじめに、生命の誕生した場面について考えてみます。もちろん、その場面がいつだったのかとか、それはどのように生じたのかとか、何が「生命」なるものの本質的特徴だと言えるのかとか、なぜ生命が誕生したのかとか、そういう複雑で厄介な問題を解明してやろうというわけではありません(笑)。そういうのは、全くもって僕の手に負えない問題ですからね。そういうことではなく、ある時、ある場所に、「生命」だとみなされる存在が誕生した、とひとまず想定してみることからはじめます。現在の一般的認識から言うと、最も原始的な単細胞生物なんかを想定してもらえるといいかと思います。おそらく生命にとって非常に重要なのは、それを維持し、繋ぐことです。そのためには、様々な能力が必要になることでしょう。それは、人間でいうと呼吸や消化、排泄、生殖など、そういう様々な機能を含むかと思いますが、そういう内部的な問題とは別に、外部から与えられる危険を避ける、あるいは与えられた損傷を再生し、何とか生命としての統一性を保つ必要性なども出てくると思います。つまり、一定期間生き延びることが必要であり、「生命の存在と共に危険が存在した」と言えるのではないかと思います。ある研究者は「危険は生命そのものと同じくらい古いものであるに違いない」と述べていたりします[3]。おそらく、そのような危険を回避するためには神経系と免疫系が重要な働きをしていたのではないかということが、多くの研究で指摘されていますし、僕もそれはそうなんじゃないかと現時点では考えています[4, 5]。もちろん、単細胞生物に神経系はないわけですが、最近では cognitive cell なんてことが言われていて、単細胞生物も環境を cognitive に把握して、危険を回避しているのではないかと考えられていたりします[6]。もちろん「認知とは何か」という問題は別であるわけですが。免疫学者の矢倉英隆は次のように述べています。「神経系が存在しない細菌や植物も厳しい条件のなかで生き延びているが、そこで認知機能を担い生存を支えているのは免疫システムではないかと推論した。(...中略...)もしこの結論を受け入れるとすれば、免疫システムは最古の認知システムを構成していることになる」[7]。矢倉は、その後「免疫の形而上学」の考察へと進み、それがもたらすものとして「汎心論的世界」の検討をしていきます。これも実に興味深いのですが、個人的な感想としては「仮に単細胞生物や植物などが cognitive な免疫システムを備えていたとしても、そのような側面というのは、動物意識の質的な語彙を用いなくても述べることができてしまうのではないか?」というものでした(おそらく、その「意識」なる概念を拡張することを志向している以上、僕のこの感想は矢倉の論に対してはズレていますが)。

 一旦、仮説的に免疫システムは cognitive であり、それはある種の単細胞生物においても実現されており、それによって生命を危険から守ることができているが、おそらくそこには意識の質的側面はないかもしれない、あるいは少なくとも人間と同じような意識経験はないだろうと考えてみましょう。つまり、生命は無意識的に世界の危険を察知し、それを回避する cognitive な機能を単細胞生物レベルから持っていたということです。チャーマーズの「哲学的ゾンビ」を想起してもらってもいいかもしれません。

 ここで重要になってくるのが、痛みの機能についての現代的な考え方です。つまり、「痛みは身体の危険を知らせる警告信号である」というアレです。僕が見ているかぎりでは、どうやら痛みのそのような機能が生命を守るための最も重要な機能であると考えられているような気がしてならないのですが、僕はそれを非常に疑わしい見解だと考えています。生命を危険から守るためのシステムは、痛みのような質的な側面、つまりクオリアを伴う経験の語彙を用いずに語れてしまうのではないでしょうか。例えば、脊髄反射は重要です。僕は Weisman らが指摘しているように、「侵害受容器と脊髄反射が実際の警報メカニズム」であるというスタンスをとっています[8]。彼らの主張によると、先天性無痛症患者の寿命が短いのは神経学的欠損とそれに伴う侵害受容、脊髄反射の欠如によるのであって、決して「無痛であること」によるのではないということになります。おそらく、そのような神経系の反応と密接に関係しながら、ここで話しているような免疫系による cognitive な反応も機能しているのだと思います。これまでの疼痛医学における重大な誤りは、痛みと侵害受容を混同してしまうところに端を発しています[9]。これによって、侵害受容の機能であるものが痛みの機能であるかのように語られてきた、というのが僕の認識です。この点は、しっかりと考えられる必要があると僕は思いますが、あまり研究者界隈では触れられることがありません。

 まぁ、何が言いたいのかというと、現在語られている痛みの機能というのは神経系や免疫系が無意識的になす機能のことであって、「痛み」という経験が持つ本質的な側面を語れていない、あるいは「それは痛みの機能ではない」と言える可能性があるのではないかということです。もちろん、免疫系や神経系が危険を回避するための機能を持っていたとしても、それが痛みもそのような機能を持っているという可能性を排除するわけではありません。それには、また別の批判が必要になります。しかし、「痛みがもともと情報提供のために選択されたという考えや、現在この特定の能力で生物の適応に寄与しているという考え方を支持する生物学的証拠はない。したがって、痛みの適応的価値が主にその情報提供的な性質にあることを示唆する証拠はない」し、「神経学的な証拠から、痛みは侵害受容システムの調節機構によって、主に情報提供の役割を果たすことが組織的に妨げられていることが示されている」という Casser による説得的な批判がある以上、痛みが危険を知らせる警告信号であることについて語るべきなのは批判者ではなく、むしろその擁護者の方であるのではないでしょうか[10]?

 とまぁ、色々とここまで書いてきたわけですが、その過程で非常に多くの重要な問題、慎重に触れなくてはならない問題に不用心にも接触してしまったわけですが、その点に幾分かの不安を感じつつも、たまにはこうやって無謀にも触れ、語ってみることが必要なのではないかと自問自答しつつ、これ以上は一旦黙ることにしましょう。ではでは。

 

参考文献

[1] Baral, P., Udit, S., & Chiu, I. M. (2019). Pain and immunity: implications for host defence. Nature reviews. Immunology, 19(7), 433–447.

[2] Rittner, H. L., Brack, A., & Stein, C. (2008). Pain and the immune system. British journal of anaesthesia, 101(1), 40–44.

[3] LeDoux J. E. (2022). As soon as there was life, there was danger: the deep history of survival behaviours and the shallower history of consciousness. Philosophical transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological sciences, 377(1844), 20210292.

[4] Chiu, I. M., von Hehn, C. A., & Woolf, C. J. (2012). Neurogenic inflammation and the peripheral nervous system in host defense and immunopathology. Nature neuroscience, 15(8), 1063–1067.

[5] Kraus, A., Buckley, K. M., & Salinas, I. (2021). Sensing the world and its dangers: An evolutionary perspective in neuroimmunology. eLife, 10, e66706.

[6] Lyon P. (2015). The cognitive cell: bacterial behavior reconsidered. Frontiers in microbiology, 6, 264. 

[7] 矢倉英隆. (2023). 『免疫から哲学としての科学へ』, みすず書房, 244頁.

[8] Weisman, A., Quintner, J., & Masharawi, Y. (2019). Congenital Insensitivity to Pain: A Misnomer. The journal of pain, 20(9), 1011–1014. 

[9] Cohen, M., Weisman, A., & Quintner, J. (2022). Pain is Not a "thing": How That Error Affects Language and Logic in Pain Medicine. The journal of pain, 23(8), 1283–1293. 

[10] Casser, L. C. (2021). The Function of Pain. Australasian Journal of Philosophy, 99(2), 364–378.