ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

Nociplastic pain———疼痛医学が完全なる覇権を握るときが来ましたか?

 どうやら近々、Nociplastic pain についての研究会が開催されるようである。僕はその研究会に参加する気は今のところないので、研究会の開催や内容についての批判を展開することはしない(一応述べておくなら、第1回の研究会には参加したが、興味深いお話も聞けた。その節はとても感謝している)。むしろ、ここで問題にしたいのは Nociplastic pain という用語の医学への導入そのものについて、あるいはNociplastic pain という用語を導入する意味についてである。

 Nociplastic pain についての言説を見ていると、どうも 'Nociplastic pain' という概念の登場を大変ありがたがっている方が多い印象である(もちろん批判的な研究者などもいる)。だが、この用語の導入は実質、全ての痛みを医学のフィールドに包摂し、他を寄せ付けないためのものである、というのが僕の見解である(あるいは少なくとも、そういう大きな運動の一部である)。つまり、それは患者のためのものであるというよりも、医学のためのものなのではないかと疑っているのである。このあたりについて、今回は語ってみようと思う。

 少し前まで、医学上で痛みは3種類に分類されてきた:侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛(以前は神経因性疼痛)、心因性疼痛である。この分類は、かの有名な二元論の子であると謳われてきた。つまり、一方には身体由来の痛みがあり、他方には心由来の痛みがあるということだ。まぁ、ここでよく問題にされている「心因性疼痛」という分類の是非を問うことはしない[注1]。単に、そのように分類されてきたということを確認したかっただけである。しかし近年、心因性疼痛という分類の衰退に伴って、侵害受容性でも神経障害性でもない痛みが臨床的な問題となった。このような事態に対応するべく提唱されたのが「Nociplastic pain」という用語である[注2]。この用語は、2016年に提唱され[7]、2017年に正式に IASP によって採択された。Nociplastic pain とは「(定義された)侵害受容性でも(定義された)神経障害性でもないが、侵害受容の変化から生じていると推測される痛み」のことである[2]。また、この点も非常に重要なのであるが、Nociplastic Pain という臨床的仮説と ICD-11 の「慢性一次性疼痛」という診断分類と「侵害受容の中枢性感作」という神経科学的な機構の説明の間には差異がある。それにも関わらず、一部の研究者は「『nociplastic pain』はそれ自体が診断名であるばかりでなく、『慢性一次性疼痛』の主な基準である『他の慢性疼痛状態では説明できない』すべての状態を説明できると主張している」のである[2]。「『慢性一次性疼痛』が『nociplastic pain』を意味し、『nociplastic pain』が『侵害受容の中枢性感作』を意味すると読者を誘導している」研究者も存在するほどである[2]。これは非常に恐ろしい事態なのではないだろうか?あくまで仮説的構成概念である Nociplastic pain を診断実体と混同し、そのメカニズムとして中枢性感作の説明も含まれることで、あたかも実質的に全ての痛みが医学的な問題であるかのように錯覚させられることになるだろう。これは、「生物心理社会モデル——その欺瞞的言説、あるいは隠蔽された猛毒的性質」でも取り上げた 'concept shifting' によって、医学の範囲を拡張する試みの一形態であるとも言えるだろうか。

 僕たちは既に忘れてしまっているが、痛みは決して医学上だけの問題ではない。モリスが指摘したように、「私たちの文化では—工業化が進み専門技術者によって支配された現代の西洋世界では—痛みはまったく単純に医学の問題であると巧妙に信じこまされている」し、「今日私たちの文化は自ら進んで、感謝しながらと言ってもいいくらいに、痛みを説明する仕事を医学に譲り渡してしまった。(...中略...)ほとんどあらゆる時代、あらゆる文化において、医師というものがあったにもかかわらず、痛みの意味がこれほど完全に医学の分野になったのは有史以来初めてである」ということを忘れてはならない[3]。彼曰く、それは「西洋世界」のことであるようだが、むしろそれは「無国籍の痛み」と言った方が適切に説明できるかもしれない。イリッチは「医学文明は痛みを技術の問題に変えてしまい、その際、受苦からその固有の個人的意味を奪い去ってしまう傾向がある」と述べ、次のように展開する:「諸々の文化は意味の体系であり、無国籍の文明は、技術の体系である。文化は痛みを意味のある体系の中に統合することでそれを耐え得るものとするが、無国籍文明は痛みを無と化すために、主観的、あるいは主観相互間的文脈からそれを切り離してしまう。文化は痛みを、その必然性を解釈することで耐えうるものにするし、癒しうるとみられる痛みのみが耐え難いものなのである」(訳を一部変更している)[4]。痛みの問題が「意味の問題」から「技術の問題」に転換した云々の話は、Sullivan と Ballantyne の "The Right to Pain Relief and Other Deep Roots of the Opioid Epidemic" のChapter 1 に詳しいので、そちらを参照していただけると良いかと思う[5]。ここで問題なのは、あたかも痛みが「技術の問題」であると考えさせられることによって、それ自体も既に一つの意味であることを隠蔽しているところである。柄谷によれば、それこそが近代医学、あるいは科学的な医学の特徴である。「科学的な医学は、病気にまつわるもろもろの『意味』をとりのぞいたが、それ自体もっとも性の悪い『意味』に支配されている」[6]。

 Nociplastic pain とラベリングできれば、あとは医学の自由な場である。これは、ある意味では医学の勝利を意味する。「疾病に対する」とか「痛みに対する」ではなく、「痛みを抱える全ての人に対する」である。それは科学的な問題というよりも、むしろ政治的な問題であるのではないだろうか。全ての痛む人から、「科学」という知的制度の名の下に自身の痛みについて語る機会を剥奪することで、意味の問題に向き合うことを困難にするのではないだろうか。イリッチが言うように「文化は痛みを意味のある体系の中に統合することでそれを耐え得るものと」し、その不可避性・必然性を引き受けてきたのであるが、現代医学ではそれらは不可能化されている。それは、18世紀イギリスで生じた認識の変容の影響を受けているのかもしれない(詳しくは、過去のブログ記事とそこで参照している文献を読んでください)。あたかも、痛みの不可避性を隠蔽することで、全ての痛みは乗り越え可能であるかのように錯覚させられているのである。痛みの否定から勝利という幻想への距離はそう遠くはなかった。かつて全身麻酔の成功を謳った詩で、「痛みの死」が宣告されたように、むしろそれは痛みの克服という事態よりも、僕たちの欲望の表れにすぎなかったのかもしれない。BPSM の受容でも同様の問題があるが、僕たちは適切な距離を持って新たな発明・発見に向き合う必要があるのではないだろうか。僕たち自身の言葉で語る機会を保持するためにも、僕たち自身の苦しみに向き合うためにも、医学上の問題へと痛みの問題の全てを還元する傾向に抵抗しなければならない。そうでなければ僕たちは、自分自身の痛みを痛むことすらできなくなるだろう。僕たちは、Morrisの次の言葉を反芻することができる。「コンピューター断層撮影や磁気共鳴画像撮影のたびに、客観的で可視的な病変の存在なしには痛みを正当化できないという暗黙の論理が少しずつ強化されている。さらに、19世紀初頭に痛みを可視的なものに変え始めた歴史的な力が、診療所以外の場所での痛みの生活を見過ごし、過小評価するように促している」[10]。これと同じように、あらゆる痛みを医学的に説明可能なものにしようとする試みは、医学的な正当化なしには痛みの存在を許容できないような文化の暗黙の論理が少しずつ強化されていくことに繋がりはしないだろうか?この点は、非常に重要な問題であるだろう。

 

注釈

[1]  この問題をここで扱うには、記述すべき事柄が多すぎる。一つの大きな問題は、それは「気のせい」なのかという問題であることはおそらく間違いないだろう。個人的には、それが心因性であるということから、即ち「その痛みは幻想である」とか「想像上の痛みである」という帰結が必然的に導かれるかというと、そうではないのではないかと考えている。「心因性」という言葉は、痛みの由来について語るものであり、実在性について語るものではないと考えることも可能であるからだ。それはむしろ、「歴史的観点からの痛みと現在進行中の政治的運動」という記事でも取り上げたように、19世紀的な医学的背景によるのではないかというのが僕の仮説である。また基本的に、その起源と現在における是非の問題は分けて考える必要がある(発生論的誤謬を犯すことにもなりかねない)。現実の痛みと想像の痛みという二分法が、患者の経験する痛みの否定に繋がっているという点を考えれば、大きな問題である。しかし、痛みの経験を意味付けるのは医学的正当化にのみ依存することではない。むしろ、医学的正当化によってしか意味づけできないと思い込んでいること自体が問題なのである。

[2]  僕は「痛覚変調性疼痛」という日本語訳に大きな不満があるので、あえて日本語表記は採用しなかった。Nociplastic pain で重要なのは「侵害受容機能の変化」があるのではないか、という臨床的推論であり、「痛覚変調性疼痛」という日本語表記では「痛み」と「侵害受容」の境界が不適切に曖昧にされている。この点については用語委員会から提出された文書を見れば明らかである。痛み関連学会連合のホームページに掲載されている「Nociplastic pain の日本語訳に関する用語委員会提案 【要約版】」によると、「痛覚」を選択した理由として「『侵害受容』と『痛み』の間にあるさまざまな機構を示せる語感がある」という点が根拠として挙げられている[8]。これは実に曖昧な「根拠」なのではないだろうか。また、その理由として、解説論文では「altered nociceptive function」、「altered nociceptive pathway」、「altered nociceptive processing」などと表現されていることから、「ここでの『noci-』は,『侵害刺激の符号化過程』としての狭義の nociception だけではなく, 末梢から中枢までの『痛みの成立に関わる機構と過程』を包括的に指し示している」と解釈したことが述べられている[8]。しかし、解説論文にあるのは「侵害受容機能」、「侵害受容経路」、「侵害受容過程」、つまり「痛みの成立に関わる機構と過程」ではなく、「侵害受容の成立に関わる機構と過程」について語る言葉が並べられているのである。ここでも、何故だか不必要に語りが拡張され、境界が曖昧にされるのである。この点は、痛み関連学会連合用語作成委員会委員に名を連ねている牛田享宏氏が著者に含まれる最近の論文からも理解できる。その論文では、「Nociplastic とは『nociceptive plasticity』が由来の造語であり,『侵害受容・痛覚の可塑性』という意味である」と述べられている[9]。しかし、nociceptive plasticity は文字通り「侵害受容の可塑性」ではあるが、「痛覚の可塑性」ではない。これらから分かるように、痛覚変調性疼痛という日本語は「痛み」と「侵害受容」の境界線を不適切に曖昧にする解釈によって作られているのである。これらは疼痛医学に深刻な問題をもたらしかねない。あくまで Nociplastic pain とは非侵害受容性かつ非神経障害性の痛みについての臨床的推論による仮説的構成概念なのであり、「侵害受容の成立に関わる機構と過程」の変化に起因すると想定されている痛みのことである。ここにおける「侵害受容」と「痛み」の識別は決定的に重要であり、それを混同すること、あるいは不適切に曖昧にすることは避ける必要がある。それを助長しかねない「痛覚変調性疼痛」という訳は、再考に迫られているのではないだろうか。痛みと侵害受容を混同すること、あるいはその境界を曖昧することによる認識論的・言語的問題については[1]を参照。

 

参考文献

[1]  Cohen, Milton et al. “Pain is Not a "thing": How That Error Affects Language and Logic in Pain Medicine.” The journal of painvol. 23,8 (2022): pp.1283-1293. 

[2]  Cohen, Milton et al. “"Nociplastic Pain": A Challenge to Nosology and to Nociception.” The journal of pain vol. 24,12 (2023): pp.2131-2139. 

[3] デイヴィド B. モリス, 渡邉勉, 鈴木牧彦. (1998). 『痛みの文化史』, 紀伊国屋書店, 2, 30-31頁. (David B. Morris. (1991). "The culture of pain", University of California Press). 

[4] イヴァン イリッチ, 金子嗣郎. (1979). 『脱病院化社会』, 晶文社, 103-4頁. (Ivan Illich. (1976). "Limits to medicine—Medical nemesis: The expropriation of health", Marion Boyars Publishers). 

[5]  Mark Sullivan, Jane Ballantyne. (2023). "The Right to Pain Relief and Other Deep Roots of the Opioid Epidemic", Oxford University Press

[6] 柄谷行人. (2008). 『定本 日本近代文学の起源』, 岩波書店. 157頁. 

[7]  Kosek, Eva et al. “Do we need a third mechanistic descriptor for chronic pain states?.” Pain vol. 157,7 (2016): pp.1382-1386. 

[8] 痛み関連学会連合用語委員会. (2021). 「 Nociplastic pain の日本語訳に関する用語委員会提案 【要約版】」, https://upra-jpn.org/wp-content/uploads/2021/10/Nociplastic-pain-の日本語訳に関する提案.pdf, 2024.4.11閲覧

[9] 猪狩裕紀, 牛田享宏. (2021). 「慢性疼痛のメカニズムとアセスメント」, Jpn J Rehabil Med 2021;58: pp.1216-1220. 

[10]  Morris, D B. “An invisible history of pain: early 19th-century Britain and America.” The Clinical journal of pain vol. 14,3 (1998): pp.191-6.