ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

生まれてこないほうが良かったのか?——補助線としての異世界転生もの

 昨日、Twitter(X)上に下記のような連投をした(以下、イタリックの文章がそれ)。

 

 近年、いわゆる「異世界転生もの」が多くアニメ化されており、その状況に辟易していたのでこの現象について考察してみようと思ったところ、こんな文献を見つけた。内容としては、わりと素朴でありきたりではあるが、これを補助線として象徴的意味について考察するのは面白そう。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jinbunxshakai/2/7/2_39/_article/-char/ja


 例えば、近年「反出生主義」が若者(?)の間で流行しているようであるが、それとの関連性というのは、真っ先に気がつくことである。「何か違う」という現世に対する不全感が、現代社会批判としての異世界転生ものの流行を生み出している、みたいな論はつまらないが、そういうことしか思い浮かばない自分は、もっとつまらないなと思うなどした🙄

 上記文献内で参照されている Levy の文献は面白そう。「異世界転生もの」について考察するのって、「ただアニメについて評論家ぶって話してるだけでしょ」って思われがちだけど、現代社会あるいは文化を考えるための一つの補助線としては、個人的にアリだと思うんだけどな。

 とはいえ、アニメってのは娯楽として消費されがちなので、そもそもそういう話にならないってのも、こういう考察があまり発展しない理由としてあるのかも…?

(2024/4/27 16:06 - 16:19)

 

 このツイートを投稿した意図としては、最近のアニメ化傾向が「異世界転生もの」に若干偏っている印象が個人的にあったこと、それぞれにあまり面白みがなくなってきており、それらを見ることに辟易としていたことから発する半ば愚痴みたいな小言を言いたかったこと、しかし一方で、それらの現象が意味することを改めて考え直してみると、意外と興味深いのではないかということが主な理由であった。

 2024年春シーズンにおいて、僕が見ている作品だけでも『この素晴らしい世界に祝福を!3』、『転生貴族、鑑定スキルで成り上がる』、『転生したらスライムだった件 第3期』、『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』、『無職転生 Ⅱ 〜異世界行ったら本気だす〜 第2クール』など、多くの転生系アニメが放送されている。当初は、もちろんTwitter上にバッと語ってみたくなっただけで、このようにブログ記事の形式にするつもりは毛頭なかったのだが、友人から「書いて欲しいです!楽しみです!」と圧をかけられ(笑)、そう言ってもらえるなら、僕の手に余るのは大前提であるが、ちょっとだけ書いてみるかと思ったので、こうやって文章にしているのがことの経緯である。

 とはいえ、何を、どのように書こうか。このような事を「専門的に」というのは大袈裟だが、特別に多くの時間を割いて考察してきたというわけでもない。なので、何か説得的なことを「論証」によって提示するみたいなことは避けたい、というか出来ないということをどうか了解していただきたい。また、上記ツイートにも明記してある通り、僕は個人的に「つまらない」と感じるようなことしか思い浮かんでいないのである。これが、この文章を書くことに対して気が引けた第一の理由であり、僕がジェシの文献 (1) を「素朴でありきたり」と評したのもそれが故であった。つまり、ジェシの文献に記されている内容は、僕ぐらいの人間にも割りと容易に思いついてしまい、大きな驚きがなかったという意味でそうだったのである。僕からすれば、「僕程度の人間にも思いついてしまうような内容」というのは、基本的に「つまらない」のである。そして、そのような理由から、ありきたりなことについて改めて語ったところで、何か意味があるだろうか?と感じたのが正直なところである(しかし、自分のこの関心自体については興味深いと思っている。それに対するアイデアが面白くないというだけで)。そのような前提の上で始めよう。

 まずは、ここで主題として議論の俎上に載せようと思っている「異世界転生もの」について概要を見ておこう。このような作品のテンプレートが、あるサイトでまとめられていたので引用しておく。そこでは、①トラックに轢かれる、②チート能力に目覚める、③主人公がヒロインにたくさん称賛される、④ノーストレスでどこまでも高みに上り詰める、⑤タイトルが長く、それだけでストーリーが伝わる、という5つの特徴があげられている (2)。とはいえ、もちろんこれらに当て嵌まらないような作品も沢山あるだろう。どんな理由によって、これらがテンプレとして提示されているのかは分からないが、確かに、このような特徴を備えた作品を作れば、いかにも「異世界転生もの」と呼ばれる作品ができそうではある。要するに、「言いたいことは分かる」という程度にはテンプレ的ではあるように感じる。とはいえ、もう少し丁寧な定義づけも確認しておきたいと思う。

 ジェシは、「異世界もの」を「現実世界に生まれた主人公が突然ヨーロッパ新中世主義的異世界に転移・転生するという特徴を持つジャンル」、あるいは「主人公(大抵は現代の日本人)が異世界(大抵はヨーロッパ中世を規範とする異世界)に送られてしまう設定を持つ日本独自なファンタジーの派生ジャンル」と定義している (1)。そのような作品においては、「主人公は多くの場合、いわゆる社畜、ひきこもり、ニート、いじめられっ子など、社会的には報われない人々ばかりであるのが特徴」であり、「転生してから、記憶や性格は変化しなかったにも拘わらず、日本社会では達成できなかった自己実現に成功する展開が核心的であり、英雄になることが定番である」ことから、このような描写によって「読者と同じ社会環境にあった主人公の利用による促進効果が同一化を容易にし、異世界という比較点を提供することで、現実世界を再考させるのが『異世界もの』の持つ独自な機能である」 ことが明確にされている(1)。つまり、複数の形態を取りうる「社会批判としての異世界もの」である。ただし「異世界もの」と、このブログ記事で主題にしたい「異世界転生もの」は若干異なっている、あるいはもう少し細分化したほうがいいのではないか、というのが僕の直感である。それについては後述しよう。

 個人主義による自己責任論が跋扈する現代社会において、個人主義的な能力主義、つまり「能力」なるものが個人に内在的にあると考えるのが支配的である。いわば、「成功できないのはお前自身のせい」なのである。その一方で、ジェシが分析している『ノーゲーム・ノーライフ』の主人公は、所属する世界が変わることによって自身の力を最大限発揮できるようになっている。これは、2023年冬シーズンに放送されていた『便利屋斎藤さん、異世界に行く』などでも同様であった。現世でも同じ能力を持っていたが報われなかった主人公が、異世界においては称賛され、大活躍するのである。つまり、能力の個人主義から文脈主義への転換、あるいは勅使河原が「能力の社会的構成説」と呼ぶような考え方が前景化されている (5)。それによって、現代社会の在り方を暗に批判していると見ることができるだろう。それをジェシは、「主人公自身に問題があったわけではなく、日本社会の側に問題があったと読み取れる」と述べている (1)。

 とはいえ、問題は何故このようなジャンルが流行っているのであろうか、ということである。現代社会を批判するものとしての「異世界もの」と考えるだけでは、どこか物足りない感がある。ジェシも引用している著作において、Levy は異世界ものが流行し始めたのは2010年代初期からであると述べている (4)。2010年代初期の日本といえば、東日本大震災を経験し、直接の被災者にだけではなく、日本の全国民に衝撃を与え、大きな不安を呼び起こしたし、その被害の余波は福島第一原子力発電所事故に伴う放射能問題を巻き起こした。本当にこのままでいいのだろうか?という疑問を抱いた人も少なくはなかっただろう。当時は10代前半であった僕も、何か色々とまずい気がするなと感じていたことを思い出す。また、スマホが広く普及し、4G回線の導入と各種SNSの人気上昇に伴って、ネットを利用したいじめ問題なども浮上し、社会が大きく変容した(ちなみに、Instagramのリリースは2010年、LINEは2011年である)。ネット社会化による孤立化がますます広がり、社会の分断が進んだ。このような社会変容と共に、徐々に日本の衰退が嘆かれるようになっていき、日本の後進性が明らかにされ、もはや戦後の蓄積を食い尽くしてしまった状況で未来は明るくなくなっていたように思う。そんな社会状況も相まって、現実世界との対比をさせる言わば「レンズ」としての作品が流行したのかもしれない。つまり、異世界という別世界を内包した「まなざし」を通じて社会を見ることで、別様に意味づけられた世界が垣間見えるのである。ジェシがまとめているが、異世界ものの作品は「2011年から急激に増加し、2015年までは出版される作品数が毎年ほぼ倍になった」のである (1)。

 ここまでは「社会批判としての異世界もの」という視点から考えてみたが、欲望充足のために利用されている感もある。Levy も指摘しているように、このような作品は「幻想的現実逃避」と「願望実現」をもたらしてくれる (4)。ジェシは、ジャクソンの著作から引用して次のように述べているが、重要な箇所なのでそのまま引用する:「ローズマリー・ジャクソンはファンタジーが『特質上、文化的制限による不足を埋め合わせるようとする、不在や喪失として体験されるものへの欲望の文学である』ii と主張し、それが『沈黙されたもの、不可視とされたもの、覆われて〈不在〉とされたもの、つまり文化の中の言及されないもの、見えないものを透写する』iii(1981, 3–4)。ジャクソンはこのようにファンタジーのより古い形式とテーマに関して指摘するが、『異世界もの』も見事に該当する」(1)。これに関しては、全くその通りだと思う。つまり、周辺化され、今や不可視的な存在の欲望を描写する文学がファンタジーなのであり、「異世界もの」は上記でジェシの定義を引用したように「日本独自なファンタジーの派生ジャンル」なのである。周辺化されたものの文学としてのファンタジーは、現実世界の変革を目指す活動というよりは、Levy がいう「幻想的現実逃避」的な側面が強いようにも感じる。これは例えば、Levy が指摘するように、主人公がヒロイン(主に女性)から無条件の愛情を受けることにも表れている (1,2)。これは『Re:ゼロから始める異世界生活』において、よく「クズキャラ」と言われる主人公のスバルが、ヒロインであるレムやエミリアから無条件の愛情を受ける描写などに現れている。あるいは、そのような無条件な愛情ではなく、エロティックな表現を通して主に男性視聴者の欲望充足(それらは、往々にして現実世界では経験できないようなもの)を実現するようなものもある。このような構図は『この素晴らしい世界に祝福を!』などに顕著である。社会批判としての異世界ものには、往々にして男性視聴者に対する優遇が存在し、フェミニスティックな表現は欠如している。『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』などにおいて、このような表現は支配的であり、女性キャラは性的に消費されることになる。話を戻すと、「異世界転生もの」は「異世界もの」と括るよりも、それ独自の欲望を備えた作品群として解釈したほうが適切であるようにも思える。その際に参照したいのが、近年流行している「反出生主義」という思想である。これについて説明する前に、「異世界もの」の細分化について話しておこう。

 個人的に重要だと思ったのは、「異世界転移もの」と「異世界転生もの」を分ける必要があるのではないかということであった。ジェシの文献では、「転生も包含して『異世界転移もの』の方がより正確であるが、『異世界もの』という名称が普及しているため、 本稿ではそれに従う」と述べられ、そのあたりの区別は明確にはなされないまま考察が進められていく (1)。つまり、ジェシにおいては、「異世界転移もの ⊃ 異世界転生もの」というのが「正確」な分類である。とはいえ、近年のいわゆる「異世界もの」においては、主人公が「転生する」という物語構造こそが重要であり、それには単なる「転移」とは異なる重要な意味があるのではないかという僕の直観から、異世界転移ものと異世界転生ものを区別する分類を提唱してみたい。

 まず、「異世界もの」というのは、随分昔からある物語の一形態であることは疑いないだろう。例えば、『グリム童話』はグリム兄弟が編纂し、1812年に初版第1巻が刊行されたメルヘン集であるが、この物語においても異界的な「森」が登場することが指摘されている。日本における昔話でも、例えば浦島太郎が亀に連れて行ってもらった「竜宮城」だって、見方によっては異界的だと言えるだろう。しかし、上記のような物語は、主人公の「死」を通過していない。「転移もの」においても、主人は死を通過しないまま、いわばその生のまま別世界へと移動する。しかし、「転生もの」では、物語の始点において主人公は死を経験し、新たな生として別世界を生きることになる(通常、我々は自身の死を経験できないことは特筆に値する。つまり、通常は経験不可能なものを物語を通じて経験できるのである)。このような物語構造の差異から、「転移もの」と「転生もの」の区別が必要であるように感じる。

 この記事において主題にしたいのは、もちろん転生系の物語である。このような転生と転移の区別の末に、どのような観察が展開できるのだろうか。転生は「現にある生の否定」であり、「別の新たな生の渇望」であるが故に、反出生主義的な認識との相性が良いことが理解できるという利点があるのではないか(とはいえ、狭義の反出生主義は生殖の倫理的否定である。ここで取り上げる反出生主義はいわば広義のそれであり、出産否定よりは誕生否定を強調する立場である)。「いやいや、転移ものだって別の生を生きられているのだから、転生ものだけを特別に反出生主義と繋げるのは些か無理矢理なのではないか?」と言われるかもしれない。僕自身、そこまでしっかりと考えたことがないから、これがどれだけ妥当なのかは分からない。だからこそ、改めてここで考え直してみようというわけである。

 例えば、「リセット感情」というのをタームとして持ち出すのはどうだろうか。「社会批判としての異世界もの」においては、現にある生の批判を通じて、新たな別様の生への転換を志向している。それは現にある生を否定はせず、批判し、既にそれがあること自体は引き受けている。引き受けているからこその社会批判なのである。つまり、活力に満ちた認識である。転移ものは、現にある生を批判し、別様な在り方としての「異世界」を志向するが、現にある「その人」自身を否定することはない。その人のまま異世界へと移動するのである。しかし一方で、転生ものは現にある生を否定し、全く新たな(しかし、前世の記憶は引き継がれたりしている)生を生き直している。そこにあるのは、現世を否定し、新たな「異世界」を彼岸として求めるリセット感情に根ざした彼岸信仰的態度であるようにも見える。 また、語彙から考えてみるというのも面白いかもしれない。転移を表す英語は displacement である。これは、語源的にはラテン語の「dis-(別)」と「placere(置く)」が結合してできた単語で、「置き換える」という意味を持っている。つまり、場所の置き換えがその本来の意味であり、肉体の変化は主題ではない。むしろ、自身の変化よりも場の変化が強調されているのである。一方で、転生を表す  reincarnation は「何度も肉体を持つこと、新しく肉体を持つ状態」を意味し、「re-(再び、もう一度)」と 「化身」を意味するラテン語の「incarnationem」に由来する。つまり、こちらは再び別の肉体へと受肉化することが主題であり、場の変化というよりは自身の変化が強調されている。現代を生きる我々に浸潤した「リセット感情」とそれがもたらす様々な問題点については、近年だと東浩紀氏が記述している (3)。ジェシも触れているように、「複数の世界に対して帰属意識を覚えると言うよりも、現実世界に帰属意識を覚えないことがその特徴であろう。『異世界もの』全体に見られる傾向として、異世界に行った後は、現実世界に戻れないことに対して、主人公はあまり未練を抱かないのである」(1)。ここで、反出生主義について少しだけ触れよう。反出生主義には、いつくかの段階があるように思える。つまり、現にある生に満足できないが故に別の生を志向するタイプ、現にある生の完全否定を通じて別の生を志向するタイプ、現にある生の否定を通じて全世界線における自己の生そのものを否定するタイプ、生全般の否定を通じて自己以外も含めた全ての生を否定するタイプなどである。このように考えると、転移ものは第一タイプ、転生ものは第二タイプに馴染みやすいように思える。というのも、転移ものは別様になるのであれば現世で生きることも可能である。なぜなら、主人公は「死んではいない」のである。一方で、転生ものは既に一度「死んでおり」、同じ生でもって現世を生きることは原理的に不可能である。この点が、転生ものにおいては決定的に重要であると僕は考えている。つまり、何が言いたいのかというと、もちろん転生ものにも社会批判としての側面はあるのかもしれないが、むしろ重要なのは欲望充足的側面の方であって、それが故に今の流行があるのではないかということである。これは、個人的には望ましくない傾向であるように思える。それは、「幻想的現実逃避」にすぎないのであり、社会変容に繋がる運動は生じにくいように思えるからだ。これでは、ジェシが提示した異世界もの独自の機能を果たすことが困難であるようにも思えるのである。さらに重要なことは、様々なメディアの視聴者たる我々は、現世を生きざるをえないし、視聴体験から、あるいは幻想的現実逃避から離脱し、現世を生きざるをえないのである。即ち、現在必要なのは物語と現世の濃密な接続関係であるだろう。そこから、どのような文芸批判と改革が生じるのかは、僕には手に余りすぎる。論じるだけの余力がない。なので、今回はここまでということにしておこう←笑。

 総括として、ジェシが「日本ファンタジーは、社会現象になるほどのグローバルな流行になっているにもかかわらず、『異世界もの』に関する先行研究は発祥国である日本でも未だに少ないのが現状である」と述べ、自身の研究が礎になっていくことを願っているのには共感を覚えた (1)(僕はジェシのような研究者などではないが)。僕のツイートにも記載していたように、アニメや漫画は単に娯楽的に消費されるものである感が否めない。決してそのような受け取り方を否定したいわけではないが、個人的にはこのブログ記事のようにダラダラと分析、考察するような文化が好きなので、そういう傾向が広がってくれたら嬉しいとは思っている。いつか、そのような光景を目にしてみたいものである。

 

参考文献

(1)ジェシ, エスカンド. (2022). 「異世界ものにおけるゲーム的世界の考察——テクストに見られる現代日本社会批判を巡って」, 人文×社会,  2(7), p. 39-53. 

(2)https://s.animeanime.jp/article/2019/06/09/46029.html 

(3)東浩紀. (2023). 『訂正する力』, 朝日新聞出版.

(4)Levy, Tani. (2021). 'Entering Another World: A Cultural Genre Discourse', In Eds. Martin Roth, Hiroshi Yoshida, Martin Picard. "Japan's Contemporary Media Cultural Between Local and Global: Content, Practice, and Theory", pp.85-116. Heidelberg; Berlin: CrossAsia-eBooks. 

(5)勅使河原真衣. (2022). 『「能力」の生きづらさをほぐす』, どく社, p.42. 

(6)Jackson, Rosemary. 1981. Fantasy, the Literature of Subversion. London ; New York: Methuen.