ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

歴史的観点からの痛みと現在進行中の政治的運動

Doleys, Daniel M., Pain: Dynamics and Complexities (New York, 2014; online edn, Oxford Academic, 1 May 2014)

 

 今日は、Daniel M. Doleys の "Pain: Dynamics and Complexities" の関心がある章を拾い読みした。第2章の 'The History of Pain' と第8章の 'Pain as a Disease' を読んだが、ある意味ではこの2つの章はひとつながりである。

 第2章は、割りと一般的な痛みの歴史的叙述であり、読みやすいものであった。古代文明における痛み、特にエジプト人バビロニア人における痛みの記述から始まり、ギリシア人、ローマ人のそれへと移るというように、標準的な医学史と似たような構造を持っている。その後、中世におけるキリスト教と医学の関係および痛みの認識が記述され、ルネサンスを経て近現代へと進む。

 第2章で特に興味深かったのは、やはり近代についての記述であった。19世紀において、社会的不正義に対する関心が高まり、人間を苦しみから解放することが目指されたことが語られている。これは、昨日読んだ文献でも触れられていたことである。昨日書いたブログにも登場したジョン・ロックについて述べられていたのも印象的であった。さらには、19世紀初頭において、従来の痛みについての認識から、功利主義哲学の隆盛に続き、個人の痛みの緩和が有益な事業として受け入れられたことが述べられている。この点については、昨日の疑問点に繋がるヒントとなるかもしれないなと思って読んでいたが、残念ながら詳細な記述はあまりなく、さらっと触れられたのみであった。

 また、個人的に好きな David B. Morris の研究が取り上げられ、当時のアメリカ、イギリスにおける The invisible history of pain についても触れられていた点は興味深い。当時の時代的な力によって、痛みは目に見える対象へと還元されることになるが、その一方でロマン派的な認識によって、主観的なものとしても認識された。「皮肉なことに、痛みは『主観的なもの』であることを黙認していたにもかかわらず、当時の科学はなぜか、痛みの起源と現在進行中の基盤は客観化できると確信していた」のである。その結果、痛みは身体的で、客観的で、目に見える痛みと感情的で、想像的で、気のせいとしての痛みとに分かれることになる。

 この点について、以前文献調査をしていた際に興味深い文章に出会ったので引用しておく。これは、1912年に書かれた文章であるが、20世紀初頭においても、19世紀的な痛みの分類が持続していたことを示す証拠となるだろう。「 私たちは、現実の感覚の結果としての痛みと、感情的または想像上の痛みという 2 つの種類の痛みを明確に区別する必要がある」(1)。少なくとも現在、痛みをこのように分類する公的機関は存在しない。あるいは、むしろ意図的にこのような二分法は避けられているようにも感じる。こういった歴史的観点から示唆されるものとして、現在はなぜそう分類されないのか、そこにおける政治的力学の形式に関心が向く点があげられるだろう。

 とまぁ、こんな感じの章ではあったが、個人的に最も関心が惹かれたのは、引用されている Morris の文章であった。そこでは、次のように述べられている。「19世紀に司法制度は、公的に痛みを与える代わりに投獄を始めた。投獄は、臨床のまなざしが、科学の客観化された光で人体の内部を見つめる医師にのみ痛みが見えるものとしてそれを再定義したまさにその瞬間に、刑罰を私的な行為に変えた」(2)。

 ここに作用した政治的な力が一体なんであったのか、それを探究することは痛みの政治史を考える上で非常に重要となるであろう。

 ところで、冒頭で「ある意味ではこの2つの章はひとつながりである」と述べたことについても触れておこう。本書の第2章は「21世紀は痛みの歴史の中で最も目覚ましい変化を目の当たりにしている」と述べ、Siddall や Cousins をはじめ、多くの疼痛専門家が痛みを「疾患」として捉えることを推進している(3, 4)件について記述されて終わっている。つまり、それが現在地であるとして語られているのである。

 そのリアルタイムな政治的交渉の一部が第8章の記述なのである。第8章においては、慢性疼痛を疾患とみなす言説が再生産されている場を見ることができる。それは、Doleys がそのような事態を上手くまとめてくれているからではなく、Doleys 自身の言説が、そのような運動の一部としてあるのである。その点において、本書の第8章は貴重な資料になるだろうと思うし、分析の対象にもなるだろうと思う。そのような意味において、個人的には第8章も興味深かった。

 今日のところはこのへんで。ではでは。

 

参考文献

(1)Pillsbury WB. Psychology of Pain. Dent Regist. 1912 May 15;66(5):211-216.

(2)Morris DB. An invisible history of pain: early 19th-century Britain and America. Clin J Pain. 1998;14(3):191–196.

(3)Cousins MJ. Pain: the past, present, and future of anesthesiology. Anesthesiology. 1999;91:538–551.

(4)Siddall PJ, Cousins MJ. Persistent pain as a disease entity: implication for clinical management. Anesth Analg. 2004;99:510–520.