ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

生物心理社会モデル———その欺瞞的言説、あるいは隠蔽された猛毒的性質

Roberts, Alex. “The biopsychosocial model: Its use and abuse.” Medicine, health care, and philosophy vol. 26,3 (2023): 367-384.

 

 昨日、実に面白い論文を読んだ。せっかく論文を読むのなら、こういう文章ばかりが読みたいものである…などと考えつつ、読んだ論文を題材にして、少し僕の雑感でも書いていこうかなと思う。

 近年の生物心理社会モデル(以下、BPSM)受容には凄まじいものがあると感じている(グローバルな意味で)。様々な分野の論文の中では、このモデルが多用されているし、それは僕の関心がある疼痛分野や精神医療分野においてより顕著である。とはいえ、日本の医師界隈やコメディカル界隈、柔整・あはき師界隈にどの程度浸透しているかと問われれば、答えに窮せざるをえない部分はあるが…まぁ、そんなことはどうでもいい。もう既に50年遅れなのだ。今更感が強すぎる。そんなことよりも議論すべき重要なことがあるのだし、個人的にはそちらに注意を向けていきたい所存である。

 しかしまぁ、少し厳しすぎる感はあるので、もう少し温和な態度をとるならば、近年少しだけ日本においても BPSM が浸透してきた感もないことはない。複数の学会で演題発表として語られ、論文化もされている。ガイドライン等でも触れられ始めたので、やっと50年分の遅延を取り戻してきた感もなきにしもあらずである。

 まぁ、僕の半ば愚痴みたいな話はここまでにして、本題の方に入っていこう。論文の著者は、BPSM が医学教育の場などで教えられるようになっているにも関わらず、「医学研究者や哲学者から比較的批判的な精査を受けていないのは驚くべきことである」と述べており、僕としても同感である。また、「 BPSM に対する既存の批判が深刻な問題を提起していることを考えると、この注目の低さは特に驚くべきことである」と述べられている点に関しても、僕は全面的に同意である。本邦にも、これから積極的に BPSM を輸入するムーブメントが生じるのかもしれないが、その際には細心の注意を払う必要がある。かつて Nassir Ghaemi が指摘した(1)にも関わらず、BPSM の折衷主義的側面は見て見ぬふりをされているのが現状であると思う。BPSM の「包括的な性質によって、その信奉者たちは、相容れない教条主義を含むさまざまな視点を自由に選択し、無計画に混ぜ合わせることができる」(強調ボク)のであるから、この点についての批判は核心的な部分である。

 それでは、著者が本論文で述べている本旨の方に進もう。著者は、実際の BPSM 自体の能力と研究者達の期待の間にある「ギャップ」に目を向ける。そのようなギャップを埋めるための策略として用いられる種々の誤謬によって語られる言説を、著者は 'wayward BPSM discourse' と呼んでいる。その中には、次の3つの戦略がある:Concept shifting, Question begging, Appeals to authority。このあたりについての著者の議論には説得力がある(詳しくは、論文の第3節と第4節を参照)。

 第2節において展開されているのは、一体 BPSM が何であるのかについての記述である。ここの理解は非常に重要である。なぜなら、おそらくこの部分の理解の欠如がギャップを生み出し、その溝を埋めるための不正がなされることになるからである。BPSM は、特定の疾患を認識するための「モデル」として利用される、つまりその語源からして「鋳型的に」利用される場合が非常に多いように感じられる。しかし、誤解してはならないのは BPSM はそのような意味での「モデル」ではないということである。「 BPS モデルは医学の領域がどこまでなのかを議論するためのモデルなのであって、個別の疾病に関するモデルではない」(2)。これは Roberts も指摘しているように、「 BPSM とは何かというと、基本的には、病気には生物学的、心理学的、社会的要因が関与しているという一般的命題(the general proposition)である」ということだ。彼は、ここから帰結する BPSM の2つの限界を明示している。つまり、「第一に、BPSM には疾病とそうでないものを区別する基準や、特定の疾病を定義する基準がない」ということ、「第二に、BPSM 自体が因果関係を立証するための知的手段を提供していない」ということである。しかし、BPSM は「疾病について科学的な結論を提示」するために利用されていたりする。これらは、しっかりと認識されて然るべき指摘である。これらの限界から、Robert は次のように結論づける。「結論として、BPSM は『概念的枠組み(conceptual framework)』と呼ぶのが適切であるが、科学的モデル(scientific model)でもなければ、疾病の説明モデル(explanatory model)でもない(Bolton and Gillett 2019; Ghaemi 2011; McLaren 1998; Quintner and Cohen 2019)」。実に素晴らしい指摘だ!この点を認識するだけで、BPSM に付随する種々の誤りは是正されるであろうし、近年流行中の BPSM に則って慢性疼痛を疾病とみなそうとする政治的運動が、いかに不毛で無根拠な誤解によるものであるかが明確になる。

 しかし、ここで注意せねばならないのは、Roberts も指摘するように BPSM それ自体に全くもって価値がないということではない点である。「概念的枠組みとして、BPSM は健康と病気の決定要因に関する情報を整理し、伝達するための有用なツールとして機能する」のである。僕的な言い方をするならば、BPSM の価値というのは、医学の人間理解に reductionistic なそれから、holistic なそれへというパラダイムシフトをもたらした点にある。とはいえ、これは後述する危険な力の行使と背中合わせの状態でもあるのだが…。

 第3節は著者のいう 'wayward BPSM discourse' の説明であり、第4節は著者の主張を個々の事例に合わせて検証するセクションなので、実際に文献の方を読んでもらって、皆さんにも検討していただきたい。それゆえ、僕がここで述べることは何もない(とは言いつつも、最後に若干の疑問点を述べる)。

 個人的に最も興味深かったのは第5節、その中でも特に 'The medicalizing power of wayward discourse' と名付けられた小節である。第5節の冒頭で「 wayward BPSM discourse は、あいまいな病気現象(すなわち、理解されていない行動、症状、経験)を、仮説上の「疾病」へと変容させる空間を作り出す」と述べられている点も、個人的には非常に興味深い。まぁ、とりあえずその点については傍に置いておくとして、最も印象的なのは、本記事の序盤でも取り上げたように、BPSM が「自由」な折衷主義的側面を持つが故に、「疾病」という概念を利用して政治的な諸問題を作り出す空間を準備しているのではないかという BPSM の the medicalizing power についての指摘である。つまり、BPSM は新たな医療化の運動をドライブするかもしれないのである。この点が、中盤で匂わせておいた「危険な力の行使」に関する部分である。Wayward BPSM discourse は、「 [1] あいまいな苦しみの状態を医学の範囲に属する器質的問題として時期尚早に表現し、[2] 医学と国家の力を不当に増大させる形で『疾病』の領域を拡大する」という医療化の手段になる潜在的な危険性がある。BPSM の人道主義的側面を強調する論文や脱医療化的側面を強調する論文が多数ある一方で、「 BPSM に基づく言説は、人間の苦しみのあらゆる事例を『医学的疾病』とみなすことが可能なほど曖昧な疾病概念も生み出している」のであり、前者の主張に懐疑的になるべきであることが指摘される。さらに、Roberts は BPSM の  the medicalizing power の帰結を強調する。それは端的に言えば、エリオット・フリードソンが医療社会学の古典的名著『医療と専門家支配』の中で明らかにしたような、専門家支配を助長するような方向性である。つまり、「『疾病』という言葉には、強力な社会的秩序化効果」があり、「この言葉は、目の前の問題は医学の専門家だけが理解できる、あるいは最もよく理解できるものであり、したがって、その専門家にはその問題に対する権威が与えられるべきだということを意味する。この権威は、法律的、政治的、社会的領域にまで及ぶことがある」のだということである。このような言説は、しばしば「科学的というよりむしろ、ほとんど明白に政治的である」ような形態をとることもある。このような医療化は「Engel 自身が始めた変化の集大成」なのであるが、「ここには科学的・政治的権威を束縛する代わりに、それを増幅させるメカニズムとなる『疾病』の概念がある」。この点に関して、例えば慢性疼痛を疾病だと言い張る医療従事者などは、真剣に議論するべきであると個人的には考えているし、それ故にこの問題点については僕自身も議論していきたいと思っている。いつか文書化できれば…。

 まぁ、これらの問題から、BPSM は適切に運用される必要があるのは間違いないだろうが、おそらく適切に運用された BPSM の価値というのは大幅に医療者の期待を下回るものであり、現在ほど崇められるようなものではないことが明らかになるだろう。重要なのは、適切な距離感である。

 実に興味深い論文であったが、一部疑問に感じる部分もあった。というのも、Roberts は Engel の「疾病(disease)」の取り扱い方に関して批判の矛先を向けている(つまり、Engelは「概念上の区別を不適切に曖昧にしている」と批判される)が、Roberts 自身が扱う「疾病」についても、ある種の一般的仮定を前提としているのではないか、と感じたのである(彼は、論文内でその点について認めているというか宣言しているし、それは古典的な二元論に由来するものである)。むしろ問題は、Roberts と Engel の間で争われている「疾病」自体が一体何なのかという問いであるような気もしないではない。Roberts 自身も書いているが、「彼(Engel)の論文で述べられているように、『生物心理社会的モデル』は練り上げられたモデルではなく、エンゲルが定義したような疾病の研究に原理的に適しているものに対する名前なのである」。このような観点に立つならば、Engelの言説を、単に「Concept shifting である」と告発することに、どれほどの意味があるのかは僕には判断できない。だが、Roberts 自身の主張が、彼の指摘するような Question begging に、あるいは Appeals to authority に該当しないのだろうか、という疑問はある。また、医学の範疇を設定するという問題も別で重要であるだろうし、人間の苦しみをどのように認識するのかというのも問題であるだろう。とはいえ、Roberts の論文内で述べられている Engel の議論の不適切さの指摘には納得せざるをえない。ここで僕が問題としているのは、その議論の仕方云々ではなく、むしろ彼らそれぞれの世界観である。Engel は議論の仕方が下手くそではあったのだが、彼が医学全般を視野に入れて包括的に議論し直そうとしたこと自体は評価したいところである(その方法と目的、帰結には賛同できないが)。この点については、慎重な議論が必要であることは間違いないだろうし、今後もっと積極的に触れられるべき医学上の問題であるとも思う。

 まぁ、これ以上の議論を展開するだけの力が僕にはないし、今日はこのへんで。ではでは。

 

追記(2024-4-8)

 記載するのを忘れていたが、Roberts はオンラインに論文内で取り上げきれなかった他の事例に関する詳細な議論を Appendix として公開している。そこには、'Chronic pain' の項目も含まれており、疼痛医学領域を専門にしたいと考えている僕にとっては非常に興味深いものであった。また、そこで引用されて議論の俎上に載せられている Clauw らの "Reframing chronic pain as a disease, not a symptom: rationale and implications for pain management." (3) という論文は、僕が現在執筆中の論文にも引用しているものであったので、興味深いというより、もはや興奮した。

 とまぁ、そういうことは置いといて(笑)、Roberts は上記論文内で wayward BPSM discourse が利用されていることを指摘する。この論文の「慢性疼痛が疾病であるという議論は、appeals to authority, concept shifts, and question-begging maneuvers に大きく依存しているように見える」とし、「慢性疼痛が疾病であると再認識されるのは、このような策略によるものなのだ」と結論づけている。重要なのは、痛みが生物心理社会的現象であるということと、痛みが生物心理社会的疾病であるということには随分とギャップがあるということだ。思い出していただきたいのだが、そもそも「BPSM には疾病とそうでないものを区別する基準や、特定の疾病を定義する基準がない」のである。

 個人的に、慢性疼痛を疾病とみなす動きは科学的なものではなく、むしろ政治的なものであると考えている。ゆえに、Roberts の主張には同意できるところが多かった。このような見解に対して、慢性疼痛=疾病派の人々はどのような反論を展開するのだろうか。非常に気になるところではあるが、それは今後の動きに注目するしかないだろう。

 

参考文献

(1)ナシア・ガミー, 山岸洋, 和田央, 村井俊哉. (2012). 『 現代精神医学のゆくえ———バイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却』, みすず書房. (Nassir Ghaemi. "The Rise and Fall of the Biosychosocial Model", The Johns Hopkins University Press, 2010. )

(2) 杉本光衣. (2021). 「精神医療における「生物・心理・社会モデル」」,  新進研究者 Research Notes 第4号. 

(3) Clauw, Daniel J et al. “Reframing chronic pain as a disease, not a symptom: rationale and implications for pain management.” Postgraduate medicine vol. 131,3 (2019): 185-198.