ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

禁忌としての痛みとポルノ化された痛み

Halttunen, K. “Humanitarianism and the pornography of pain in Anglo-American culture.” The American historical review vol. 100,2 (1995): 303-34.

 今日は、痛みの文化史的な研究、特に英米系文化圏における人道的博愛主義と痛みのポルノグラフィーの関係についての論文を読んでいた。30年ほど前の研究ではあるが、この手の研究はあまり時間経過を考慮しなくても問題なかったりするので有難い(もちろん最新の研究動向は追ったほうが良い。あくまで程度の問題である)。個人的には、結構興味深いものであったが、若干僕の手には余る内容でもあったというのが正直な感想である。内容を十分に理解できたかというと、否定せざるをえないだろう。

 本論文では、 ジョン・ロックの感覚主義的な哲学とその継承者としての道徳哲学者たちが形作った the cult of sensibility によって、他人の苦悩に対する感受性が高い存在こそが道徳的な英雄として崇められ、このような感性崇拝が、痛みを避けるべきもの、根絶可能なものとして再定義し、新たな反発を導いたことが述べられているが、それと同時に、痛みのポルノ化が生じ、痛みの表現に変化がもたらされたことが語られている。つまり、人道的博愛主義的な感性が、痛みを道徳的・社会的なタブー、避けられるべきもの、根絶させるべきものと再定義していくに伴って、それを猥褻に披露すること、つまり痛みのポルノ化を促したのである。それを Halttunen は、「18世紀から19世紀にかけて英米系文化に現れた痛みのポルノは、意図的に痛みを与えることを中心としたさまざまな伝統的な文化的実践に疑問を投げかけた『文明化の過程』の想像的帰結を指し示している」と述べている。

 とまぁ、こんな感じに要約するのも良いが、せっかくなので個人的な関心に沿って文章を書いていくことにしよう。

 本論文では、特定の文化圏内における痛みの意味変容過程が丹念に追求されている。このような研究は、本文内でも引用されている David B. Morris が述べているように、痛みとは「常に歴史的なものであり、特定の時代、場所、文化によって常に再構築されるもの」であるからして、非常に重要であると個人的には考えている。

 例えば、現代において痛みは「避けられるべきもの」という、ある種の倫理的な必然的要請を含みながら語られる。あるいは、痛みの最中において、その当事者が痛みに対する忌避感情を抱くのは、至極当然のことであるとみなされているし、医療的な実践は全てにおいてそのような人道主義的精神で満ち溢れている。さらに拡大するならば、それは森岡正博氏が「無痛文明」と語った文明的なものにまで広げることが可能かもしれない。しかし、そのような必然性は、むしろ幻想の産物なのかもしれないと考えることは、無益なことだろうか?実際、麻酔出現以前の文化では、痛みは否定ではなく奇妙な形で肯定されていたし、西洋医学的な伝統もキリスト教的教義との結託によって、その不可避性を引き受けていた。あるいはもっと積極的に、痛みが自然治癒プロセスの一部であるとの認識から、痛みを軽減すること自体が避けられたりもしたのである。

 現代においては、 痛みに対する忌避感情が、もはや集団的な、つまり Fascism of pain relief のような形態で僕たちを支配しつつあるようにも思える。ニーチェに言わせるなら「現代のわれわれは、以前の人びとに比べてはるかに強く苦痛を憎悪し、以前に比べて苦痛をずっと悪く言う。(......)生存が洗練されて快適になることで、魂や身体の避けがたい苦痛、それも蚊に刺された程度の苦痛を、ひどく残酷で悪質なものと考えるような時代」を生きていると言えるのかもしれない。

 いや、むしろ、本論文はそのような忌避感情が生成される場を見せてくれるという意味で興味深い。 Halttunen によると、「 改革者の目的は、痛みの猥褻さを悪用することではなく、これまで受け入れられてきた広範な社会慣行を残酷で容認できないものとして再定義するために、痛みを暴露することであった」のであり、個人的には、このような認識の出現にこそ興味がある。上記にあるように、このような改革者たちの認識は、決して痛みに本質的なものではない。まさに、再定義されることによって作られたものである。

 さらに個人的に興味深いと感じるのは、このような文化的慣習が痛みの探求にすら影響を与えうるということである。18世紀の感性的な文化の高まりに合わせて、医師が患者に痛みを与えることに対する敏感さも洗練され、効果的な麻酔を発見しようとする努力が強化された。そのような努力は、1846年に一応の完成をみる。ロマン派的な痛みの見方が支配的になったことよりも、むしろ、そのようなロマン派的な流れの中から、痛みをリアリスティックに眺め、それを制御する技術の向上(つまり、麻酔の開発)が図られたこと自体が興味深い。

 さらに個人的な関心として、ロックの感覚主義哲学において、そのヒエラルキー内で視覚の優位性が強調されていたこと、さらにはその後の道徳哲学者たちにもそれが共有されていたことが示唆的だった。個人的に、痛みの実践における視覚の優位性について考えを巡らせていたので、いつかこれが合流してくることもあるかもしれない。

 また、ジョン・ロックという哲学者であり、医師でもある人物は、あまり日本の医史学界隈において注目されていない印象があるが、本論文の内容に則って考えるならば、少なくとも疼痛医学史においては重要な人物であるだろう。さらに、彼は健康の自己主権論を唱えたブルジョワジーであり、その点についても医史学的に重要であるようにも思える。あるいは、公衆衛生の哲学とでも呼べるようなものを構想する場合においても、彼は重要な人物になるかもしれないなと感じている。そこらへん、しっかりと展開できるようになるかは、とりあえず現在の僕としては分からない。

 もう一点追加で述べておくなら、疼痛医学史における「イギリス」というものに対する関心も個人的にはある。本論文においては、人道的博愛主義的な感性の知的起源は17世紀後半から18世紀初頭にかけての Latitudinarianism 派の神学者たちにあるとされているが、その後の流れを汲むものとしてイギリスの功利主義者たちを無視できないのではないかと僕は考えている。特に、18世紀から19世紀にかけて生きたジェレミーベンサムあたりが気になっているが、医学史的な文献ではあまり扱われていないように思う。福祉思想史、医療経済史あたりでは取り上げられていたりするが…。このあたりの関係については、また別の論文でも読もうと思う。

 とまぁ、こんな感じで興味深く読ませていただいた。しかし、若干消化不良な感があるので、再読していつか追記することにでもしようかな。ということで、本日はここまで。