ゆうさくの外部装置

de omnibus dubitandum. by Karl Marx

坂井建雄『解剖学の歴史』(2025)を読んでの雑感など

 2月12日に講談社学術文庫に仲間入りした本書『解剖学の歴史』は,坂井氏が1993年に著した『からだの自然誌』を文庫化し,表題を改めたものである.実は,僕は『からだの自然誌』も持っているのだが,どうもA5判という判型があまり好きではなく,むしろ文庫判や四六判が好きなので,今回文庫判が出たということで,読んでみようかなという気になった.何しろ,A5判は大きくて読みにくい.図版がメインの本であれば良いのだろうが,文章がメインだとどうも手に取りにくいのだ.まぁ、これは僕の変なこだわりである.

 当然,ある個人的な関心から本書を手に取ったのだが,本書にはそういった関心に沿う記述内容はあまりなかったと言っても良いだろう.その意味では,個人的には少々面白みに欠ける本であったというのが正直なところである.しかし,ある点においては,つまり,解剖学者の語りの次元に注目する視点を持って眺めてみるならば,興味深い点が多々あったと言える.一応だが,この本の表題にもなっている「解剖学の歴史」というものに関心がある方には,同氏が岩波書店より刊行されている『人体観の歴史』の方を勧める.こちらの書籍は,膨大な原典資料に基づく解剖学の歴史書であり,参考になるところが非常に多い.日本語で読める解剖学史に関する書籍としては異例の名著であり,こちらの書籍の価値が色褪せることはないだろうと僕は思っている.とはいえ,今回は『解剖学の歴史』を読んだので,こちらの書籍に対する雑感を記しておくことにする.

 現代における解剖学は,ある部分については非常に重い.これは,現代における解剖学教育が負っている一つの事情による.それは献体解剖によって解剖学的知識を身につけるということに起因しているのだ.坂井氏も210-213頁にその重さについて記載されているが,僕自身も同じような体験をしたことがある.われわれ柔整師も(他の養成校については詳しくは知らないのだが),養成校時代に解剖実習というものを部分的に経験する.僕自身の体験から言えば,筋肉や骨,あるいは内臓や大脳などを見ることは,教科書に記載のあるような解剖学的対象を見ることと同義であり,特別な感情を抱くことはほとんどなかった.目の前にある切り取られた前脛骨筋は,ホルマリン固定によって鮮やかな赤みを既に失っており,まるで干し肉のような外観を呈していた.両手で掬うように拾い上げた大脳は,想像していたよりも重く,固定によってなのか,硬かった.僕が感じた衝撃は,やはりご献体の「顔」を,あるいは正確にはその「眼」を見たときに与えられた.その瞬間,僕は目の前にいる(ある,ではなく)のが,単なる解剖学的対象ではなく,一人の人間であることを否応なく痛感させられたのである.まず第一に,この経験自体が興味深い.解剖学が対象にする「人体」と,僕がその目とかち合ったときに出会った「人間」と,その差異は一体どこにあるのか,そのことが僕にとっては不思議であった.目が合ったとしても,ご献体はすでに亡くなられており,生き返ったわけではない.目が合う以前と比べて,何かが変わったわけではない.この体験と医学臨床の場面から考えるに,どうも人体と人間の差異というのは,その存在が生きているか死んでいるかには関係なく,その間を移動するようである.この,人体と人間の間のズレ,ここにこそ解剖学という学問の本質が隠されているのではないだろうか.

 解剖学という実践にある種の批判的な眼差しを向ける僕にとっても,様々な理由によって未来のためにご自身の身体を人類に提供してくださった方々には,尊敬の念を抱かずにはおれないし,本人の意思を尊重し,それに協力したご遺族の行為も尊いものであると思っている.そういったことを最大限尊重する意味も込めて,解剖学について真剣な思索を巡らすことは,いまを生きるわれわれに与えられた使命であるような気さえしてくる.なお,ご献体と遺族についてのドキュメンタリー映像があり,非常に考えさせられるのでおすすめしておく(監督マーソ・チェン「妻として、母として」).

 本書を読んで感じたのは,坂井氏が解剖学に対してとっているようにみえる二面的な態度についてのことである.「肉眼解剖学や細胞生物学を含むさまざまな領域の研究をとおして、人体という自然の謎を、われわれはいくつも解きあかしてきた。そこで得られた人体についての知見や理解は、医療の現場に活かされ、われわれの生命をまもり、健康を増進するための強力な武器を提供している。しかしわれわれが、人体についてどれほどのことを知りえているかを、尋ねてみよう。われわれの科学が、人体についての真実のほんの一部しかあきらかにできていないということを知れば、多くの人は、強力であると同時に無力であるという科学の二面性に、ただ愕然とするばかりであろう」(237頁).このような二面性は,本書全体を通して坂井氏の語りの中に,解剖学に対する二面的な態度として表現されているように感じた.「われわれ解剖学者にとって、人体の構造や機能についてのどのように立派な理論よりも、実際の人体にみられる個々の所見のほうが、はるかに重みがある。現実の自然のなかに存在するものは、われわれが眼にみるような個々の事実であり、生物学上の理論はすべて、それら事実をもとに組みあげられた仮説、あるいはもしかして虚構にしかすぎない、そういう感覚をわれわれ解剖学者はもっている。だからこそわれわれは、解剖して得た所見や一枚の顕微鏡写真のなかになにかみえたかを、非常に重んじるのである、われわれ解剖学者は、あえて自分たちのメッセージを説明することを慎みむしろ解剖学的な事実に託して語らせようとする」(49頁)と言ったかと思えば,「人体の構造や現象のすべてについて、物理学や数学を支配するのと同じような厳密な法則がみいだせるという考えは、あきらかに幻想である」(157頁)と言いもするのである.正確には,これら二つの態度を坂井氏は両有している.表現の通り,このような態度は二面的なのであり,両立不可能な二項対立などではない.とはいえ,坂井氏の態度は前者の態度に偏っている傾向があるように感じられた.つまり,解剖学に対するある種の楽観的な態度に,である.

 本書では,些か素朴に「現実」や「事実」,「自然」,「真実」といった言葉が用いられている.アラン・コルバンが編集した『身体の歴史』がその代表となるようなある種の歴史学フェミニズム的な実践などがその部分として明らかにしてきた,医学における身体につきまとう政治的な側面を顧みれば,もはや楽観的に医学的身体を事実や真実,自然などと述べることには困難さが感じられる.フーコーを経て,バトラーを経験したわれわれは,もはや解剖学的な知識を中立的で客観的なものであると素朴に信じることはできない.仮にそうするにしても,一定の言葉が必要であるだろう.僕としては,むしろ古くは紀元前300年ごろにアレクサンドリア学派のヘロフィロスやエラシストラトスによって人体解剖がなされていたにも関わらず,現在のような解剖学的知識が発達するにはそこから1000年以上も待たねばならなかったことの方が気になる.それを,単に無知などに由来すると言うことは簡単ではあるが,そう言って済ませることはできそうにもない.こういった点が解剖学内部で議論されるとき,それは大抵進歩史観的な語りに還元される.しかし,果たしてそれが真理なのだろうか.個人的には疑問である.

 本書も,医学史について論ずる多くの書物の例に漏れず,その始まりをアンドレアス・ヴェサリウスとウィリアム・ハーヴィーに関する文章にしている.彼らに特徴的なのは,人体にたいする人間の態度の転換,つまり「自然現象をありのままに観察し、理解しようという態度」(16頁)であると考えられている.しかし,「二人の業績は、古い誤った学説を正したというだけのものではない。自然そのものを自分の眼で率直に観察し、自分の頭で論理的に考えるということ、すなわち科学としての医学が、二人によって始められたのである」と述べるのは,楽観的にすぎる感は否めない.「自然」を眺める態度は客観的・価値中立的なものだと信じられやすい.しかし,自然概念自体が変化してきた歴史がある(ピエール・アド『イシスのヴェール —自然概念の歴史をめぐるエッセー—』を参照のこと).また,ハンソンが科学哲学の分野で提唱した「観察の理論負荷性」のように,自然をみる眼差しそのものに一つの理論が内在している可能性すらある.坂井氏が展開する解剖学観はあまりにナイーブであると言わざるを得ないだろう.本書における種々の限界はこの点に由来する.一方で,上記の『人体観の歴史』が価値を失わないのは,原典資料に依拠し,多くの歴史的資料を提供しているが故である.

 本書は,「自然誌」という観点から解剖学の歴史を描くことを意図しており,「『自然誌』とは、無秩序な自然を整理し、秩序だって記載する営み」だと述べられている(4頁).この「自然誌」というのが少々厄介である.この自然誌という観点からは,「解剖学を含め、自然誌の記載には、観察する者の判断がすでに含まれているのである。それを記載することに意味があるという判断が、その記載のなかに表明されているのである」(57頁)という留保はつけられているものの,あくまでそこでなされる判断というのは,どの事実を「選択」するのかという次元であり,何が選ばれるにせよ,選択されたものが事実であることには変わりないと考えられている.しかし,上記の自然誌の定義に従う限り,占星術に基づく記述も「自然誌」とみなされるのではないだろうか.果たして,解剖学と占星術は同じ次元に属しているのだろうか?

 「解剖学は、人体構造についての知識を与えるだけでなく、われわれが人体を理解するための枠組みをも提供してくれる」という点については同意だが,それに続いて述べられる「解剖学という枠組みなしで眺める人体は、無秩序な肉塊にすぎない。解剖学という眼鏡をとおすことにより、われわれは人体のなかに整然とした秩序をみいだすことができる」(4頁)と述べられる点には留保が必要だろう.「解剖学」というものをどのように考えるかにもよるのだろうが,解剖学以外にも,われわれは自身の身体を理解する術を持ち得るはずだ.すなわち,解剖学がないからといって,必ずしも身体が「無秩序な肉塊」となるわけではないだろう.むしろ,解剖学はわれわれが身体を把握する一つの方法として考える必要があるのではないだろうか.とはいえ,「解剖学」というのをどう考えるのかという問題はある.チャールズ・シンガーは,解剖学の歴史について記述した『解剖・生理学小史: 近代医学のあけぼの』という著作の最初のところで,動物が獲物の急所を狙うことを「解剖学的本能」と呼んでいる.このような身体に関する「知(?)」まで広げて「解剖学的」と呼ぶのであれば,身体に関するほとんどあらゆることが「解剖学的なもの」となることだろう.

 とまぁ,本書についての雑感はこんなものである.終始疑問に感じたのは,解剖学の限界が内在的には検討されている一方で,その外在的な批判にはほとんど触れられていない点である.解剖学的身体を所与のものとし,それについての知識は事実,真実,自然,現実などと言われもする.フェミニズム(ここにも少々厄介な事情が絡んでいるのだが…)が明らかにしてきたのは,この点についての解体であったのだろう.

 ついでなので,近代解剖学に関するちょっとしたことも述べておく.われわれの時代からみても,ヴェサリウスの解剖図に感じる美しさは一級品である.f:id:yusakuESBM:20250222075318j:image
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 とはいえ,そこにはわれわれの時代との同一性以外に差異も目立っている.現代の解剖学書,例えば日本ならば『日本人体解剖学』や『分担解剖学』,翻訳書ならば『プロメテウス解剖学』や『グレイ解剖学』などを少し開くだけで明らかなのだが,ヴェサリウスの解剖図のように,生きた人間のようなポージングをとり,さらには背景まで描かれているような解剖図は見当たらないだろう.近代医学成立の前史として語られる『ファブリカ』の著者ヴェサリウスがイタリア出身の解剖学者であることは注目に値する.近代医学の身体観は、まず初めにルネサンス期の芸術家たちの工房から始まったのであり,その影響を多分に受けていたのではないか.このあたりの事情は,藤田尚男『人体解剖のルネサンス』やハスキンズによる名著『一二世紀のルネサンス』や伊東俊太郎『一二世紀ルネサンス』などを参照してもらえると,色々と示唆的であるかと思う.また,ヴェサリウスから約100年弱のちの時代,つまりハーヴィーと同時代に生きたデカルトが『人間論』の中で用いた有名な図は,解剖図とは言えないまでも,ヴェサリウスの図と興味深い対象をなしている.そこには背景が欠けている.f:id:yusakuESBM:20250222105855j:image

 また,ヴェサリウス以前の解剖学は,講壇解剖学などと呼ばれることもある.つまり,ある特定の教科書を壇上で読み上げ,それを確認する形で人体解剖が進んでいくのである.坂井氏もこの点について次のように述べている.「ヴェサリウス以前の解剖学者は、先人の学説を絶対的権威として尊重した。人体や動物を解剖することもあったが、人間や動物の身体から発見をするというよりも、むしろ権威ある説を確認し、それを覚えるための解剖であった」(22頁).ヴェサリウスの革新性が述べられる際は,大抵このようなヴェサリウス以前の解剖学と対照することでなされる.f:id:yusakuESBM:20250222080615j:image

 上図は,モンディーノによる解剖学書(『モンディーノの解剖学』〔上図は1493年のもの〕)に描かれた絵であるが,いずれも講壇というか,テキストというか,そういった点が構図的な中心を解剖体と同時に占めるように描かれている.これは,次の1519年版の扉絵でも同様である.f:id:yusakuESBM:20250222081140j:image

 しかし,『ファブリカ』が出版された1543年(これはコペルニクスの『天球の回転について』が出版されたのと同じ年である.この点も,坂井氏は指摘している)に近づくと,このような絵にも変化が現れる.1532年版の扉絵では,講壇は構図の端に追いやられる.そこで中心を占めるのは,解剖されている身体である.f:id:yusakuESBM:20250222081517j:imageここらへんのちがいは違いは大変に興味深い.

 そして,次がヴェサリウスの『ファブリカ』の表紙の絵である.f:id:yusakuESBM:20250222081609j:image

『ファブリカ』の表紙絵では,その中央を占めるのは解剖しながら説明するヴェサリウスと屍体であり,講壇やテキストは構図から外されている.この時期に医学の関心は,テキストから身体に移行したと言えるのかもしれない.このあたりが,ヴェサリウスのやったことのうち,真に強調されるべきところなのだろうか.還元主義的な見方,リアリスティックな見方というのをヴェサリウスに当てはめることが多いようだが,本当にそうなのか,あるいは本当にそれだけなのか,個人的には疑問がある.